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和の菓子

菓子果物

弥生時代、大陸から稲作が伝わり、古代日本人の食事の内容が大きく変化した。
米や小麦、粟、ひえなどの穀物を主食とし、猪や鹿などを狩猟し魚類なども食べていた。
穀物のほかにも、小豆や大豆などの豆類は畑作し、スイカやかぼちゃなどの瓜類、桃や梅、あんず、柿などの果物類を栽培し生活していた。
農耕が始められていたとはいえ、まだ食べるものが不充分で、空腹を感じると間食用として木の実や果物を口にしていたという。
今でも果物を「水菓子」というように、当時、木の実や果物を「果子」や「菓子」と書いて「くだもの」と呼んでいた。
木の実の多くはアクが強かったため、乾燥させ、水に浸しアクを取り除き、お粥にしたり、丸くまとめたりして食べていた。
団子や餅の原形となるものが作られるようになったのは、この頃である。
こうして、古代 主食だった木の実や果物は、空腹を満たす副食品、嗜好品へと移行したと考えられる。

また、「橘」が菓子の始まりともいえる菓子の神様・菓祖神となった田道間守(たじまもり)にまつわる伝説がある。
『日本書紀』や『古事記』によると、第11代垂仁天皇の命を受けて田道間守は、海の彼方にあるとされた国「常世の国」に、
不老不死の霊菓「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」つまり橘(小蜜柑、橙のようなものであったと伝えられている)を求めて旅に出る。
10年後、帰国したときには天皇はすでに崩御された後で、大切に持ち帰った橘を御陵に捧げ悲しみのあまり号泣し陸前で、自らの命を経ったという。
こうして、古代の菓子が「果物」を指すことから、橘を持ち帰った田道間守は菓祖神となり、各地の菓祖神社に祀られているという。

唐菓子影響

奈良・平安時代に、中国から「唐菓子(からくだもの)」がもたらされ、和菓子の歴史が大きく動き始めた。 唐菓子は、小麦粉や米粉などに、甘葛煎(あまずらせん)などの甘味料や塩を入れてこね、さまざまな形に作り、油で揚げたもの。 当時、砂糖は薬用とされる貴重な輸入品だったため、菓子の甘味にはツタの樹液を煮詰めた甘葛煎が、使われていたという。唐菓子は宮中の行事や神社のお供えとして作られ、庶民とは遠い存在の菓子であったが、後に味、形、製法がすぐれた唐菓子から工夫を加え、おこしや煎餅など庶民に馴染み深い菓子が生まれてゆく。

唐菓子<span>の</span>影響
    

点心風習

鎌倉時代に入ると、中国へ渡った禅僧たちによって喫茶の風習とともに「点心(てんじん)」が伝えられた。
当時の食事は朝夕の2食であったが、中国では点心という食事と食事の間に食べる小食をとっていた。羮類、饅頭類、麺類などの点心が好んで食された。
羹は「あつもの」と読み、汁物のことでそのひとつに羊羹があった。文字通り羊羹は、羊の肉が入ったスープだった。禅僧は肉食が禁じられていたため、
小豆や米、麦などを粉にし、蒸しものを肉に見立て、汁に入れたという。のちに汁の中身だけが独立し、これが羊羹の始まりといわれている。
そして饅頭は、聖一国師・円爾弁円(えんにべんねん)や林浄因(りんじょういん)によって中国から伝えられたという。
聖一国師は、帰国後 九州博多で宋で習得した酒種を使う「酒饅頭」の製法を伝えたとされ、点心の羊羹、饅頭、麺を伝えた人とされている。
この饅頭は「虎屋饅頭」と呼ばれた。
室町時代には、渡来した中国人の林浄因(りんじょういん)によって、ふくらし粉を使う「薬饅頭」の製法が伝えられた。
当時の饅頭も羊羹同様、肉を使用していたため、浄因は肉の代わりに小豆を煮つめ、甘葛の甘味と塩味を加えて餡を作り、皮に包んで蒸し上げたという。
浄因は帰化し子孫が塩瀬姓を名乗り、今日も「塩瀬饅頭」として有名である。
また、点心と同様の言葉に、「茶の子」があった。茶の子には胡桃、海苔、結昆布、干椎茸などがあり乾物類を指していた。
点心は空腹を満たす意味があったが、茶の子は喫茶時に食べる「茶請け」で、茶を飲む前の食欲をそそるものであったという。

南蛮菓子伝来 湯文化

室町時代、和菓子の製法と発展に大きな変革をもたらしのが「南蛮菓子」である。
ポルトガル人やスペイン人により、カステラ、ビスケット、ボーロ、金平糖、有平糖などの甘い菓子が次々と日本に入ってきた。大量の白砂糖や鶏卵を使用する南蛮菓子は、それまでの菓子と大きく異なり、その味に日本人は魅了されたのであった。
またこの時代に、茶の湯の流行とともに点心は、洗練された菓子として発達し茶の引き立て役を務めるようになっていった。そして安土桃山時代、千利休によって茶の湯が確立されたのである。千利休が好んで茶会に用いた菓子は、麩焼き(ふのやき)という菓子であった。小麦粉を水で溶いた生地を平鍋で焼き、味噌を塗ってくるりと丸めたもの。当時の菓子は、素朴なものが多く、ほかに栗、柿、昆布、饅頭、餅などがあった。饅頭といっても、まだまだ砂糖は高価な輸入品であったため、今日同様の甘味はなかったという。

南蛮菓子<span>の</span>伝来 <span>と</span> 茶<span>の</span>湯文化

花開いた江戸時代

江戸時代を迎えると、文化の中心地は京都から江戸に移り、さらに和菓子は大きく発展した。
それまで貴重だった白砂糖の輸入量は格段に増え始め、 江戸中期には国内でも白砂糖や日本独自の和三盆が作られるよになった。上菓子として独特の発展をした京菓子は、京都からの伝来物「下り物」として重宝され、幕府、大名、豪商たちによってもてはやされ、御用達菓子としてますます花開いた。上菓子とは、白砂糖を使った上等な菓子のことで 今日の上生菓子に通じる。
江戸後期、上流階級のものだった和菓子は、ようやく庶民の口にも入る時代になっていった。桜餅やきんつば、大福などの名物菓子が誕生し、雛祭に雛菓子、端午の節句に柏餅など年中行事に折に菓子を食べる習慣も定着していった。また、参勤交代制度に関連して街道が整備されたことによって旅が身近になり、人々の行き来や情報交流が盛んになり、茶店が増え技巧を凝らした和菓子が日本各地で次々に誕生していった。こうして、今日見るような菓子が江戸時代に多く作られるようになっていった。

花開いた江戸時代

文明開化

明治時代になると、西洋の文化が伝わり、和菓子にも大きな影響を与えた。
文明開化ののち、チョコレートやキャラメルなどの西洋菓子が日本に入ってきた。
また、西欧の調理器具は和菓子に飛躍的な発展をもたらし、焼き菓子の多くが明治以降に誕生する。
そして西洋菓子の登場により、日本の菓子を「和菓子」と呼ぶようになったとされる。
その後、あんぱんやチョコ饅頭などの、和と洋の素材を組み合わせた菓子が多く生まれていった。

和の菓子

日本で菓子が生まれて1000余年。
現代では、海外に向けての日本文化の紹介のひとつとして、取り上げられている和菓子。
長い時間、人々の暮らしに彩りと華やぎを添えてきた和菓子は、伝統を守り、培われた技や知恵、こだわりを継承し、今もなお進化しているのである。
また、長い歴史・伝統に甘んじることなく、その時代に合った変化を受け入れ、取り入れながら日本各地で新しい菓子が誕生している。

【参考文献】
亀井千歩子(2016)『47都道府県・和菓子 / 郷土菓子百科』丸善出版.
現代用語の基礎知識編集部編(2015)『日本のたしなみ帖 和菓子』自由国民社.
虎屋文庫編著(2017) 『和菓子を愛した人たち』山川出版社.
中山圭子(2018) 『事典 和菓子の世界 増補改訂版』岩波書店.

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