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和の菓子

菓子果物

弥生時代、大陸から稲作が伝わり、古代日本人の食事の内容が大きく変化した。
米や小麦、粟、ひえなどの穀物を主食とし、猪や鹿、魚類などを食していた。
穀物のほかにも、小豆や大豆などの豆類は畑作し、スイカやかぼちゃなどの瓜類、桃や梅、あんず、柿などの果物類を栽培し生活していた。
農耕が始められていたとはいえ、まだ食べるものが不充分で、空腹を感じると間食用として山野にある木の実や果物を口にしていたという。
この間食が、菓子のはじまりであろうと考えられている。
今でも果物を「水菓子」というように、当時、果実や木の実を「果子」と書いて「くだもの」と呼んでいたのだ。
味を楽しむ嗜好品であったが、果子だけに満足せず新しい嗜好品を作ったのが菓子である。
木の実の多くはアクが強かったため、乾燥させ、水に浸しアクを取り除き、お粥にしたり、丸くまとめたりして食していた。
団子や餅の原型となるものが作られるようになったのは、この頃である。

菓子神様

今からおよそ2000年ほどの昔、紀元61年に遡る話。 『日本書紀』や『古事記』において菓祖神にまつわる伝説。「第11代垂仁天皇の命を受けて田道間守(たじまもり)は、常世(とこよ)の国 (今の朝鮮)に不老不死の仙薬果とされる非時香菓(ときじくのかくのこのみ)つまり橘の実を求めて旅に出る。10年後、橘の実を持って帰国した ときには天皇はすでになく、悲しみのあまり陸前で自らの命を絶つ」。これにより、持ち帰った橘の実(果子)は菓子の最初とされ、 田道間守は菓祖神として、各地の菓祖神社に奉られているという。

菓子<span>の</span>神様
    

唐菓子影響

奈良・平安時代に、中国から唐菓子が伝えられ、和菓子の歴史が大きく動き始めたのだ。
唐菓子(からくだもの)は、小麦粉や米粉などに、甘葛などの甘味料や塩を入れてこね、油で揚げたものである。
これまでの簡単な穀物の加工品に比べ、味・形・製法がすぐれ、唐菓子に工夫を加えた独自の菓子が作り出されていった。
さらに、砂糖がもたらされ、一部上層階級で珍重されたのだ。 砂糖が菓子に使われるようになるのは、鎌倉時代に入ってからである。
次第に砂糖の輸入量が増えていき、甘味文化の主役は蔦の樹液を煮詰めた、甘葛煎(あまずらせん)から砂糖に移っていった。
このほか、甘味料には、はちみつや飴などがあった。

点心風習

鎌倉時代に入ると、中国から禅僧によって喫茶の風習とともに「点心(てんじん)」がもたされた。点心とは、食事と食事の間にとる小食、つまりはおやつ。茶に添えらることから「茶の子」とも呼ばれた。当時の食事は朝夕の2回。その間の8つの時(今の午後2時ごろ)に、つまんだからおやつということが発端と言われる。当時、羮類、饅頭類、麺類などの点心が好んで食された。羹は「あつもの」と読み、汁物のこと。その羮のひとつに羊羹があった。文字通り羊羹は羊の肉が入ったスープだった。禅僧は肉食が禁じられていたため、小豆や米、麦などを粉にし、蒸しものを肉に見立て、汁に入れたという。のちに汁の中身だけが独立し、これが羊羹の始まりといわれている。また、室町時代に中国の林浄因(りんじょういん)によって、饅頭がもたらされた。当時の饅頭も肉を餡としたものだったため、林浄因は肉の代わりに豆類餡を入れたものを創案し、この形の饅頭が波及していった。 こうして、肉の代わりに小豆を使用したことが、和菓子の餡の始まりだとされる。

点心<span>の</span>風習

湯文化

室町時代、茶の湯の流行とともに、ただのおやつであった点心は洗練された菓子として発達し、茶の引き立て役を務めるようになっていった。この時代に形の美しい、味覚的にも優れた菓子が作られるようになり、現在の和菓子の源流となっている。そして、安土桃山時代、千利休によって茶の湯が確立される。千利休が好んで茶会に用いた菓子は、麩焼き(ふのやき)という菓子であった。小麦粉を水で溶いた生地を平鍋で焼き、味噌を塗ってくるりと丸めたもの。当時の菓子は、素朴なものが多く、他に栗、柿、昆布、饅頭、餅などであった。砂糖は、高価な輸入品であったため、饅頭といっても、今日同様の甘味はなかったと考えられる。

茶<span>の</span>湯文化

南蛮菓子伝来

和菓子の製法と発展に大きな影響を与えたのが、南蛮菓子である。
室町時代、ポルトガル人やスペイン人により、カステイラ(カステラ)、ビスカウト(ビスケット)、ボーロ、金平糖、有平糖などの
甘い菓子が次々と日本に入ってきたのだ。大量の砂糖や鶏卵を使用する南蛮菓子は、それまでの菓子と大きく異なった。

花開いた江戸時代

江戸時代を迎えると、文化の中心地は京都から江戸に移り、さらに和菓子は大きく 発展したのである。それまで貴重だった砂糖の輸入量は格段に増え始め、 江戸中期には国内でも白砂糖や日本独自の和三盆が作られるよになった。上菓子として独特の発展をした京菓子は、京都からの伝来物「下りもの」として 重宝され、朝廷、幕府、大名、豪商たちによって保護・重用され、御用達菓子 としてますます花開いたのだ。上菓子とは、白砂糖を使った上等な菓子のことで 今日の上生菓子に通じるもの。一方で、江戸の個性も出始め、桜餅、きんつば、 大福餅、おこし、せんべいなど生活に密着した菓子が作られ、上流階級のもの だった和菓子は、ようやく庶民の口にも入る時代になっていった。また、参勤交代制度に関連して街道が整備されたことによって旅が身近になり、人々の行き来や情報交流が盛んになり、茶店が増えていき、技巧を凝らした和菓子が日本各地で次々に誕生していった。このようにして、現在の和菓子と変わりない菓子が、江戸時代に多く作られるようになっていったのだ。

花開いた江戸時代

文明開化

明治時代になると、西洋の文化が伝わり、和菓子にも大きな影響を与えたのである。
文明開化ののち、ケーキやチョコレート、ビスケットなどの西洋菓子が日本に入ってきた。
中でも西欧の調理器具は、和菓子に飛躍的な発展をもたらしたのだ。焼き菓子類の多くが明治以降に誕生する。
そして洋菓子に対して、日本の菓子を「和菓子」とする呼び分けがされるようになった。
その後、あんぱんやチョコ饅頭などの、和洋折衷の菓子が多く生まれていったのである。

和の菓子

日本で菓子が生まれて1000余年。
現代では、海外に向けての日本文化の紹介のひとつとして、取り上げられている和菓子。
長い時間、人々の暮らしに彩りと華やぎを添えてきた和菓子は、伝統を守り、培われた技や知恵、こだわりを継承し、今もなお進化しているのである。
また、固定概念にとらわれず、時代に合った変化を受け入れ、取り入れながら日本各地で新しい菓子が誕生している。

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