
「どら焼き」は”いつ”、”どこで”誕生したのか
和菓子の中でもどちらかというとモダンな雰囲気を持つ、みんな大好きな身近なものといえば。そう、「どら焼き」ですね。
和菓子というジャンルの中でもポピュラーな「どら焼き」を知らないという方は殆どいないことでしょう。
ところが、この「どら焼き」が、いつの時代にどこの地方で誕生したのか、という問いに答えることは、至難の業だと思います。今回は知られざるどら焼きの歴史について考察してみましょう。
もっとも、どら焼き誕生史の回答について初めにおことわりしておきますと、厳密に言えば【わからない】という回答になります。ですので、ここでは諸説ある「どら焼き誕生の歴史 」を織り交ぜながらの考察と見識を深めるという点をメインに進めます。
「どら焼き」の誕生は”平安時代”まで遡るとする説
この説は「どら焼き」という名前自体の発祥にもつながります。そもそも「どら焼き」の”ドラ”というのは、
- 「打楽器である”銅鑼(ドラ)”に形が似ているから」という説
- 「 打楽器である”銅鑼(ドラ)” の上で生地を焼いて作った菓子であるから」という説
という説があります。そして、「平安時代」に誕生したとする説の理由としては、こんな伝説があるようです。いわく、
“その昔に源義経が奥州へ逃れた時、義経に忠実に使えた”武蔵坊弁慶”が銅鑼(ドラ)で生地を焼き菓子を作った。この銅鑼で焼いたものこそが「銅鑼焼き」の始まりである”
といったものです。
ただし、これはあくまでも一説であります。また、この時代にどら焼きが誕生していた場合でも、そのデザインに言及している情報は見受けられません。そのために、現在の私たちが思い浮かべる「どら焼き」とは一風違うものだったのかもしれません。
「どら焼き」の誕生は”大正時代”とする説
先の説は「平安時代」とされますが、普段私たちが目にするどら焼きといえば、やはり「円盤形のふっくらした2枚の生地であんこを挟んだ形」というイメージではないでしょうか。
そして、どら焼きの外見がこのスタイルになったのは「大正時代」とされています。大正時代といえば、明治時代の次の時代。そして昭和の前です。様々な文明が花開き、大衆文化も華々しく「大正デモクラシー」「大正ロマン」など多くの言葉が生まれた時代です。最近でいえば、漫画「鬼滅の刃」の時代設定にもなりましたね。
このころに今現在の形になったとされる「どら焼き」は、やはりどこかモダンな和菓子と思えます。
現代のどら焼き
このように諸説ある「どら焼き」ですが、今も昔も多くの人に愛されているという点では変わりません。また現代では、様々なタイプのどら焼きも誕生しています。
これら関連記事は一例ですが、フルーツやクリームなど、洋菓子のエッセンスを取り入れた実に様々などら焼きが存在します。[ どら焼きの 記事一覧はこちら ]
どら焼きを味わう際、ぜひ奥深い誕生の歴史や時代背景を思い浮かべてみてください。より深い味わいがきっと楽しめることでしょう。